創業の頃のこと|工場の立ち上げ
5月2日は会社設立の日でした
昭和53年(1978年)の設立なので40年になりました。ふと父から聞いていた創業当時のことを思い出した。
父は小樽の大高酵素さんで副社長として10年間、酵素の普及に尽くした後、色々な事情があって退社。その後、しばらくしてから今の会社を創業しました。
父が大高酵素を退社した頃、僕はまだ小学生で、父の仕事のことは気にかけてもいなかった。ひたすら遊ぶのに忙しかったからね(笑)でも、ちょっと家が大変そうだなということは子供心に感じてはいました。正直、大変な時期もあったようです。いや、大変なことばかりだったんだろうな。
社名の「ケルプ」というのは褐藻類、分かりやすくいうと昆布の類。ある方から、当時はなかった磯の香りの残ったエキスが欲しいと言われ試作。それが良いということになって最初は昆布のエキスの工場としてスタートしたのです。
事業を始めるにあたって、工場は住宅街に建てる訳にはいきません。また工業団地のようなところは広すぎて、当時は手が届かない。
探しているうちに準工地域という用途で手ごろな広さの土地が今の工場のすぐそばに見つかった。具体的に話を進めないと、別の人の手に渡ってしまう。
どんどん話を進めていくなかで、実は工場建築資金のあてがなかった。
融資を申し込むものの色んな銀行で断られ、信金、信組さんもダメ。
これから創業で実績がなくて、しかも社長本人は昆布の専門家ではない、最初から酵素を作るなら良かったかも知れませんけど・・・。金融機関からみればなかなか難しい案件だったと思います。
最後に辿りついたのは国民金融公庫。お世話になっていた会計士からもここがダメだったら、もう無理でしょうと言われていた。
ここも最初は難しいと断られた。でも、もう行くところはもうないので、父は毎日通ったそうです。毎日通って同じ説明をする。
断られても、断られても、毎日通ううちに変な目で見られるようになってくる。「あの人、また来た」というような…。
創業期の公私混同は必要だと思う
断り続けられるとさすがに「もう無理かな?」という気持ちが頭をもたげてきますよね。そうすると辛い訳です。工場の契約は済んでいる。あきらめるということは事業はスタートできないまま負債だけをかかえることを意味しています。多分、登記を済ませていた会社は設立してすぐに事実上倒産ということになる。僕が、多分、小学校高学年から中学生の頃。姉が高校生だったと思います。
ちょうど通い始めて40日目。今日ダメだったらあきらめようと父が決めて、いつものように国民金融公庫さんに行くと奥の部屋から手招きする人が居る。「あなたはずーっと、同じことを言っていた。信じましょう。」支店長さんはちゃんと見ていてくれたのです。ついに融資にOKがでました。
「必要なのはいつですか?」「今です。もう工場の工事は着工しています」「えっ?」
バタバタと書類を整え、すぐに融資が実行されたのでした。もう一日早く父があきらめていたら、今の会社はなかっただろうと思います。僕もまだ銀行に勤めていたのかも。
僕が銀行を約10年で退職して札幌に帰ってきたとき、会社はまだその時の工場を使っていました。休憩室にある備品とかが、自宅から持ち込んだものがたくさんあったな。
経営者が公私混同することは良いことではありません。でも、創業期の会社は創業者がすべてをかけるというか、ある意味、公私混同しなければ成り立たない。そんな気もしますね。
僕は父の会社を継ぐことを思って銀行に入った訳ではなかったけれど、潜在意識のなかに家業のことはずっとあったんだろうとも思います。
この記事の投稿者
福士宗光
父から継いだ酵素製造と、自身はヨガ素人ながらヨガスクール運営を行っているケルプ研究所2代目経営者。
健康は食生活や適宜の運動を通じて自分自身で築き上げるもの。酵素とヨガでお手伝いすることが使命と考えています。