恩師の命日で思い出したこと 気づいたこと
早いもので7月。一年の半分が過ぎましたね。
今日は本当のプライベートブログです。
6月21日は恩師 故佐藤博先生の命日でした。大学ラグビーの部長・監督だった方で、私が今の仕事についてからも研究顧問としてお世話になりました。
このブログの「曲がり真っ直ぐ」というのも先生からいただいた言葉。
先生のことを考えていたら、大学卒業間際のことを思い出した。もう30年以上前のことになりますが・・。
卒業前の恒例行事
3月。卒業式の前だったか、後だったかは覚えていませんが、卒部生が先生のご自宅に招かれ、奥様の手料理をご馳走になるという恒例行事がありました。
奥様が数日前から下ごしらえしてくださったテーブル一杯の手料理を振る舞ってくださいます。
お酒もたっぷりあって、楽しい時間をご一緒させていただくのです。
飲んで交わす話の中身は、大体が失敗や先輩にどれだけ叱られたか、酔っ払って馬鹿げたことをしたかという、いわば武勇伝に属する他愛のない話。また卒業後の進路のこと、家族のこと、、、。
先生も奥様の手料理を「美味いだろ?」と勧めながら、楽しそうに過ごされている。
何時間くらい居たのだろう。
すっかりご馳走になって、先生のご自宅からの帰り道、同期でほろ酔い加減で歩いていてふと思った。
「そういえば、先生、ラグビーの話、しなかったなぁ・・・。」
ラグビーの話をしないラグビー部監督
ずっとこのことが不思議な思いと共に心に残っていました。
僕たちのチームは、北海道で最初にラグビーをしたといわれる歴史のあるチームで、当時も、北海道学生ではNo.1でした(北海道の大学ラグビーのレベルは高くありませんが・・)。
僕たちは4年目の時に創部60年にして初の全国優勝をすることができた幸運な代。先生も、もちろん、たいそう喜んだ。
そのメンバーが先生のお宅にお招きいただき一緒に飲み、食べる。ラグビーの話で盛り上がって当然なわけです。でも、この日、少なくとも先生からラグビーの話はなかった。
同期の卒部生といっても、現役時代も早くからレギュラーとして活躍した者、4年目でようやくレギュラーになった者、最後までレギュラーにはなれなかった者、身体をこわしプレーヤーではなくマネージャーとして活躍した者、、、様々。
先生はそんなことを慮りながらラグビーの話題を避けたのだろうか。
先生がOB会長を退任された際、会誌に寄稿した文章の中に、こんな一文がありました。
・・・世の研究者教員から、ラグビー部に無駄なエネルギーを割いていると、陰口をたたかれながらも、ラグビーを介して北大ラグビー部の教育を、それにマニュアルなど有ろうはずもなく、今を無我夢中でやったのだ。ラグビーを媒介にして学生教育をやっているのだ、大学教育の一環なのだ、と自らに納得させて私は北大ラグビー部に対応したのだった。
(中略)
要するに、私はやはり「教育者」だったのである。この「教育者」は北大ラグビー部によって育まれた、そして深化させられた。
「北菱」No.48,2003,より引用
この文章を読んだとき、分かった気がした。
先生は僕たちをラグビー部員としてではなく、一人の教え子として見ていた。もちろん、現役の間は優勝を目指してラグビーに打ち込む。でも、そのことを通して僕たちは「教育」を受けていた。
先生の「教育」は、学問や研究だけではない、全人的なものだったのだと思う。特に北大ラグビー部では、卒業後、ラグビー中心の生活になるものは少ない。北大ラグビー部を卒業する僕たちを一人の人間として送り出してくれたのだと思う。
一年前、先生の七回忌では、僕たちラグビーの教え子のほか、学問、研究の教え子だった皆さんとご一緒しました。
先生は獣医学部の皆さんにもラグビーの話をたくさんしてくれていた。
初めてお話する方も多かったのですが、学問、研究の教え子、そしてラグビーの教え子である僕たちは、一瞬にして打ち解けた。
それぞれの持つ恩師の思い出を交換しながら、ただひたすらに楽しかったのです。
一年前、先生の七回忌のブログ『曲がり真っ直ぐに』↓
この記事の投稿者
福士宗光
父から継いだ酵素製造と、自身はヨガ素人ながらヨガスクール運営を行っているケルプ研究所2代目経営者。
健康は食生活や適宜の運動を通じて自分自身で築き上げるもの。酵素とヨガでお手伝いすることが使命と考えています。