昭和60年のラグビー

 

 その他

今年で日本選手権に大学チームが参加するのが最後になる。
・・で、ふと、自分が大学でラグビーをしていた頃のことを思った。

大学ラグビーは今よりもっと人気があって、その中心にいた、昨年10月20日に亡くなられた平尾誠二さんのこと。追悼の気持ちも込めて、一ラグビーファンとして書いてみます。

 

平尾は同学年のラガーマンですが、僕が大学でルールも知らずにラグビーを始めた頃、既に彼は日本ラグビーを背負っていくプレーヤーでした。

そして、昭和60年(1985年)、大学4年生で迎えた1月15日の日本選手権は、記録にも記憶にも残るものだった。

平尾を擁して史上初の大学選手権3連覇を成し遂げた同志社大学と松尾雄治率いる日本選手権6連覇中の新日鉄釜石のカード。

今ほど社会人と大学チームの力の差はなかったし、怪我で痛み止めを打っての出場した松尾はこの試合での引退を決めていて、すでにジャパンで共にプレーする新旧司令塔対決という雰囲気もあった。

ドラマの要素が揃ったゲームだった。

1985年1月6日、日本選手権出場を決めた大学選手権決勝、同志社大学vs慶応大学 日刊スポーツ( http://www.nikkansports.com/sports/news/1754510.html )より引用

1985年1月6日 日本選手権出場を決めた大学選手権決勝 同志社大学vs慶応大学 この勝利で同大は史上初の大学選手権3連覇 慶応松永のスローフォアードになったパスも印象に残っていますね
写真:日刊スポーツ( http://www.nikkansports.com/sports/news/1754510.html )より引用

 

プレーとキャプテンシーの両方が図抜けていた

結局、この年の日本選手権で平尾の同志社は敗れ新日鉄釜石が7連覇を達成するのだけれど、ウィキペディアでみたら、平尾がゲームリーダーを務めて負けたゲームはこの一試合だけという。これは凄い。

プレーヤーとして不世出の天才であるだけでなく、キャプテンシーという部分でも日本ラグビーの失ったものはとっても大きいということだと思います。

30代半ばで日本代表監督も務めて、フィジカルの強化や外国人選手も積極的に参加するべきという平尾が示した方向性は、エディジャパンの道と重なりますよね。残念ながらゲームで結果は残せなかったけれど。日本協会は、当時、その方向に舵を切らなかったような。。

プロ化、フィジカルの進化、サンウルブズ。色々課題もありながら日本のラグビーも変わってきました。

2015ワールドカップでのジャイアントキリングから、2019ワールドカップ日本開催へ。もっと変わらなくてはいけない日本ラグビーに平尾がいて欲しかった。本当にそう思います。

 

変わるもの、変わらないもの

追悼番組で当時のプレーを見たけれど、平尾はどこからみてもカッコいい。

当時と今を比べると、トレーニングや栄養のところが随分進んで、フィジカルは全然違うように見える。当時の日本代表より今の帝京大学の方が圧倒的に胸板が厚い。いや、ひょっとすると東福岡高校の選手もそうかも知れませんね。

それでも今のジャパンに平尾が当時のまま入っても、やっぱり独特の間合いでステップをきって抜けていくイメージしかない。

 

平尾が中学から神戸製鋼に至るプレーヤーとしての時代、監督やヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーの時代、そしてこれからの平尾のいない時代。
彼の軌跡に合わせるように日本ラグビーは変わるようにすら思えます。

平尾が時代をつくったのか、時代によって平尾のような存在が生まれたのか分かりませんが、ミスターラグビーと呼ばれる所以なのかも知れません。

 

これから日本ラグビーが変わっていくとしても、昭和60年の日本選手権の輝きは、ずーと消えないと思うんですよね。

当時のラグビーボールは皮製。空気抜けちゃってるど。 恩師の故佐藤博先生のご自宅にお邪魔した際、2000年にいただいたもの。

当時のラグビーボールは皮製。空気抜けちゃってるど。 恩師の故佐藤博先生のご自宅にお邪魔した際、2000年にいただいたもの。

 この記事の投稿者

福士宗光

父から継いだ酵素製造と、自身はヨガ素人ながらヨガスクール運営を行っているケルプ研究所2代目経営者。

健康は食生活や適宜の運動を通じて自分自身で築き上げるもの。酵素とヨガでお手伝いすることが使命と考えています。

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